自己紹介

はじめまして、貸切バス専門行政書士の伊藤正昭です。

以前は遺言・相続業務や貨物自動車運送業の許認可業務もしていました。
現在はほぼ貸切バス専門で業務を行なっています。

ほぼというのは、既存のお客様の要望があった場合にのみ貨物の手続きもしています。
遺言・相続業務は完全にやめました。

あと、貸切バスより小さい車両(乗用車)を用いた旅客自動車運送事業であるハイヤー(一般乗用旅客自動車運送事業)の手続きも隣接業務ということでしております。
でも圧倒的に貸切バスのお仕事が多いです。

行政書士を始めたのは平成15年です。
最初に受理した仕事がロケバス屋さんからの貸切バスの新規許可の取得の依頼でした。

以来、14年間(平成29年現在)200件以上の許可認可の取得をお手伝いしてきました。
事務所のある東京だけにとどまらず、千葉・神奈川・山梨・大阪・名古屋・京都・北海道にお客様を持つまでになりました。
ご要望があれば日本全国どこへでも行きますのでよろしくお願いいたします。

プライベート的なことについて

この後は個人的なことについてお話ししたいと思います。
長くなるので無理に読まなくていいです。(笑)

0歳から4歳まで

私は昭和42年4月26日に千葉県鎌ケ谷市に生まれました。(当時はまだ東葛飾郡鎌ヶ谷町でしたが)
父は海上自衛隊の自衛官で近くの海上自衛隊下総航空基地に勤務していました。

4歳の時に徳島へ引っ越し、高校を卒業するまで徳島で育ちました。

 

 

 

 

 

 

 

 

なので故郷と言ったら「徳島」という気持ちが85パーセント、千葉が15パーセントといったところですかね。
徳島では徳島市内でずっと住んでいました。

4歳から18歳まで

徳島で行った学校
  • 私立加茂名幼稚園
  • 徳島市立加茂名小学校
  • 徳島市立加茂名中学校
  • 徳島県立城ノ内高等学校

高校までの思い出と言えば、吹奏楽と挫折でしょうか。

幼稚園

幼稚園は「私立加茂名幼稚園」に行きました。
読み方は「かもな」です。

 

 

小学生時代

小学校5年の終わりのある日、突然、担任の先生からトランペット鼓笛隊(まだブラスバンドになってなかった)に入ってはどうかと提案されました。
即決で入部を決め、トランペットを始めることになりました。

それまで音楽という科目はそれまでもその後も得意科目になることはありませんでしたが、トランペットは上達し少人数で演奏するアンサンブルコンテストのメンバーにもなることができました。
たった1年ちょっとの期間でしたが、あちこちのイベントや演奏会に出ましたね。

私の通っていた徳島市立加茂名小学校は、自分が入学した時点で創立100年を超える(今考えるとスゴい)歴史ある小学校でした。
当時は子供の多い時代でしたので(自分で言うな!)、1学年7〜8クラスあり、全校児童は1,800人を超えていました。
ちょうど徳島のベッドタウン的なところだったからかな。
なので中学校も場所を変えただけで、小学校とまったく同じメンバーという有様でした。

中学時代

中学校は小学校と同じ名前で徳島市立加茂名中学校。
トランペットの演奏は好きだったのですが、小学生時代は毎日のように友達と野球をするぐらい野球が好きだったので、中学では野球部に入ろうと思ってました。

しかし入学してすぐなぜか分からないけど旧校舎に呼び出されました。
行ってみるとそこは吹奏楽部の部室になっていて、周りには小学校のブラスバンド(6年生の時に楽器が増えてブラスバンドに昇格していた)で見知ったメンバーや小学校では合唱部にいたメンバーが集められていました。
そう、吹奏楽部への勧誘の場所だったんです。
訳が分からないまま楽器を持たされ、吹奏楽部に入ることになっていました。

最初に持たされた楽器はテナーサックスでした。
ですが小学校を出たばかりで小柄な私には大きすぎる楽器だったようで、悲しいことに指がキーに届かず敢え無く楽器チェンジとなりました。
そして私の楽器はユーフォニアムとなりました。
ユーフォニアムとはこんな楽器です。(笑)

長い間ユーフォニアムは日陰の存在でしたが、ユーフォをフィーチャーしたアニメのおかげでやっと陽の目を見ることができました。

さて話を元に戻します。

中学3年間はまさに吹奏楽に明け暮れる毎日でした。
私の入った当時、県内では吹奏楽の強豪校で吹奏楽コンクールで毎年四国大会へ出場していました。
四国大会へは県内から2校選ばれます。

吹奏楽コンクールとは、野球でいう甲子園みたいなものです。
地域によりますが、地区大会 – 県大会 – 支部大会と勝ち上っていくと最後は全国大会となります。
徳島県は人口が少ないので地区大会はありません。

学校自体は荒れた学校でしたので文化系の部活動があまりなく、必然的に吹奏楽部に人が集まっていた感じでしょうかね。
何せ90名を超える大所帯でした。
ですので私が1年生の時は、大会メンバーは3年生と2年生、それに若干の1年生という感じでした。

当時の人口ピラミッドのとおり、下の学年に行くほど部員の数が多くなるので自分たちの学年が一番多かったです。
しかし自分たちの下がさらに多いかというとそうでもなかったです。
自分たちの学年が一番多かったかなぁ。

私は2年生と3年生の時に大会メンバーになり四国大会に出場しました。
四国大会は四国の4つの県が順番に開催地になります。
巡り合わせが悪く2年生の時は地元徳島での開催でしたので旅行ができなく残念でした。

その徳島での2年生の時は四国大会で「銀賞」でした。
吹奏楽コンクールでは参加校がすべて「金賞」「銀賞」「銅賞」に当てはめられます。
当然、上に行くほど数は少ない訳です。
うちの学校はそれまで金賞を取ったことがありませんでした。

1学年上のユーフォニアムの先輩と

 

 

 

 

 

 

2年生の最後、3年生が引退する時に次の部長などの役職を選ぶのですが、なぜか私が部長に指名されました。
その少し前に何人かの女子の先輩から「部長、伊藤くんに入れるけんな(徳島弁)」と言われたことがあったのですが、「んなアホな」と思ってました。
そして実際、先輩からの推薦と全部員の挙手による投票により部長となりました。
今でも謎です。
もしかしたら同じ楽器の先輩が部長で、いつもくっ付いていたのでそうなったのかもしれません。

3年生になる時に、顧問であった音楽の先生が転勤になりました。
そして新しい顧問の先生に代わりました。
両方とも女性の先生でしたが、50代から30代前半と若い先生へ代わりました。
その先生は徳島から全国大会に行った学校で吹奏楽をしていた人でした。

とかく何かが変わる時はいろいろ問題が起きる訳で、今までと違うやり方に反発などがありました。
その度に部長は矢面に立つのです。
新しい先生としてはやはり全国大会レベルを目指している訳です。

指導者が変わるとどの世界でも変わるものですよね。
四国大会は夏休みにあるので4月から4か月しかないのですが、新しい先生の指導のもと頑張りました。
夏休みも休みなく練習に明け暮れました。

県大会は当然のように金賞をとり、そして代表となり四国大会へ駒を進めました。
自分に取っては初の県外での大会にワクワクしました。
そして高知県で開催された四国大会で初めて金賞をもらうことができました。

全国大会へは金賞の学校から代表が選ばれます。
残念ながら代表には選ばれませんでしたが、中学最後の年に金賞がもらえたことは本当に嬉しかったです。

私たちの学校は毎年秋に定期演奏会をしていました。
経験者ではないほとんどの1年生はその定期演奏会でステージデビューとなります。
もちろん1年生はまだあまり上達してないので第1部だけの出場となります。
私もそうでした。

小学生の時にステージデビューはしていても、フル構成の吹奏楽では初めてだったのですごく感動したのを今でも覚えています。
ステージでライトを浴びながら大勢の聴衆の前で何かを表現するというのは病み付きになりますね。
ステージ袖での雰囲気も格別です。

これは味わったことのある人にしか分からないかもしれませんね。
3年間で3回の定期演奏会のステージを満喫しました。
(高校1年の時にOBの部に出たので正確には4回となりますが)
そして吹奏楽に明け暮れた中学を卒業する訳です。

そして事件は起こります。

高校時代

作成中

 

大学時代

当時はバイクブームで友達も結構な数の人がバイクに乗っていました。
写真は夏休みにバイクで実家の徳島に帰り、高校時代の友達と高知の室戸岬へツーリングへ行った時のものです。
当時乗っていたバイクは、YAMAHAのFZR400です。

 

 

 

 

 

 

 

現在

2015年6月から32年ぶりに楽器を始めました。
ユーフォニアムを再開した買ったのですが、選んだ楽器はフルート。
なぜフルートかというと、「軽い」ので持ち運びが楽、演奏人口が多いので「コミュニティ」を作りやすいということかな。
音自体も好きでしたし。

うちから数駅離れた教室に月2で通ってます。
半年に1回、教室のおさらい会(発表会みたいなもの)があります。

 

 

 

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