自己紹介

自己紹介

【はじめまして】

貸切バス専門の行政書士、伊藤正昭です。
このページを訪問してくださり、ありがとうございます。
はじめに少し真面目なことを書きます。

「busguardian.tokyo」という当事務所のサイト名には、私の行政書士としての使命が込められています。

行政書士という資格を得て開業して以来、私は貸切バス事業者様の設立から日々の運営に至るまで、法的観点からのサポートを継続的に提供してまいりました。

貸切バス事業は国の厳格な許可制度のもとに置かれており、事業者様が遵守すべき多岐にわたる法令や規制が存在します。
これら全ての規制を事業者様だけで理解し、適切に実行していくことは極めて困難であると言わざるを得ません。

時として、単純な見落としや新たな規制への対応の遅れから、行政処分を受け、一定期間の車両使用停止処分となることもあります。これは事業者様にとって直接的な売上減少に直結する、避けるべき事態です。

私は行政書士として、このような事態を未然に防ぎ、事業者様が法令を遵守しながら安定した事業運営を実現できるよう、法的な「守護者(guardian)」の役割を果たしたいという強い思いから、「busguardian.tokyo」というサイト名を選びました。
法と事業者の架け橋として、皆様の事業継続と発展をお守りすることが私の使命です。

行政書士としての歩み

平成15年に行政書士として開業しました。
最初に受けた仕事は、ロケバス会社からの貸切バス新規許可取得の依頼でした。
以来20年間(令和5年現在)、200件以上の許認可取得をサポートしてきました。
東京を拠点としながらも、千葉・神奈川・山梨・大阪・名古屋・京都・北海道のお客様にもご利用いただいています。
ご要望があれば日本全国どこへでも伺いますので、お気軽にご相談ください。

現在は貸切バス専門で業務を行っています。
「専門」と言いながらも幅広く対応しているのは、ロケバス事業者様のニーズに応えるためです。
ロケバス事業者様は、貸切バス事業だけでなく、機材や衣装を運ぶための貨物自動車運送事業、そして都市型ハイヤー(一般乗用旅客自動車運送事業)も同時に経営されていることが多いのです。
こうしたお客様のご要望に応えるため、貸切バス(一般貸切旅客自動車運送事業)の隣接分野である一般乗用旅客自動車運送事業と一般貨物自動車運送事業の手続きも承っています。

以前は遺言・相続業務や貨物自動車運送業の許認可業務も行っていましたが、現在は遺言・相続業務は完全に終了しています。

【プライベートなこと】

以下は、私個人の思い出やエピソードです。お好みに合わせてお読みください。※無理にお読みいただかなくて大丈夫です(笑)

昭和42年4月26日、千葉県鎌ケ谷市(当時は東葛飾郡鎌ヶ谷町)に生まれました。
父は海上自衛隊の自衛官で、近くの海上自衛隊下総航空基地に勤務していました。
4歳の時に母の実家のある徳島へ引っ越し、高校卒業まで徳島市内で育ちました。
そのため、故郷と聞かれると「徳島」という気持ちが85%、千葉が15%といったところです。

徳島は四国の東部にあります。
阿波おどりと鳴門のうず潮とすだちが有名です。 

 

 

 

 

 

学校

  • 徳島県立城ノ内高等学校
  • 私立加茂名幼稚園(読み方は「かもな」です)
  • 徳島市立加茂名小学校
  • 徳島市立加茂名中学校
幼稚園

幼稚園は「私立加茂名幼稚園」に行きました。
読み方は「かもな」です。

 

 

小学生時代の思い出

小学校5年生の終わり頃、突然担任の先生からトランペット鼓笛隊(当時はまだブラスバンドではありませんでした)への入部を勧められました。
即決で入部し、トランペットを始めることに。
音楽の授業は特別得意ではありませんでしたが、トランペットは上達し、アンサンブルコンテストのメンバーにも選ばれました。
わずか1年ちょっとの期間でしたが、様々なイベントや演奏会に出演しました。

通っていた徳島市立加茂名小学校は、私が入学した時点で創立100年を超える歴史ある学校でした。
当時は子供の多い時代で、1学年7〜8クラス、全校児童は1,800人を超えていました。
ちょうど徳島のベッドタウン的な地域だったのかもしれません。
中学校も場所が変わっただけで、ほぼ同じメンバーでした。

中学時代の吹奏楽との出会い

小学生時代は野球が好きだったので、中学では野球部に入るつもりでした。
しかし入学直後、なぜか旧校舎に呼び出されました。
そこは吹奏楽部の部室で、小学校のブラスバンドで一緒だったメンバーや合唱部のメンバーが集められていました。
これが吹奏楽部への勧誘だったのです。

最初はテナーサックスを持たされましたが、当時の私には大きすぎて指がキーに届かず、ユーフォニアムに楽器チェンジとなりました。

そして私の楽器はユーフォニアムとなりました。
ユーフォニアムとはこんな楽器です。(笑)

長い間ユーフォニアムは日陰の存在でしたが、ユーフォニアムをフィーチャーしたアニメのおかげでやっと陽の目を見ることができました。

さて話を元に戻します。

中学3年間は吹奏楽に明け暮れる毎日でした。

私が入部した当時、学校は県内では吹奏楽の強豪校で、毎年四国大会へ出場していました。
吹奏楽コンクールは野球でいう甲子園のようなもので、地区大会から県大会、支部大会と勝ち上がり、最終的には全国大会を目指します。

2年生の終わりに、思いがけず部長に選ばれました。
3年生になる時に顧問の先生が代わり、若い新任の先生が赴任。
その先生は全国大会経験者でした。
新しい指導方法への変化に戸惑いもありましたが、部長として奮闘しました。

最終学年となる3年生の夏、四国大会で初めて金賞を獲得することができました。
全国大会への代表には選ばれませんでしたが、最後の年に金賞がもらえたことは本当に嬉しい思い出です。


私の入った当時、県内では吹奏楽の強豪校で吹奏楽コンクールで毎年四国大会へ出場していました。
四国大会へは県内から2校選ばれます。

中学2年生当時、部室前で撮ってもらった写真。
1学年上のユーフォニアムの先輩と。

 

 

 

 2年生の最後、3年生が引退する時に次の部長などの役職を選ぶのですが、なぜか私が部長に指名されました。
その少し前に何人かの女子の先輩から「部長、伊藤くんに入れるけんな(徳島弁)」と言われたことがあったのですが、「んなアホな」と思ってました。
そして実際、先輩からの推薦と全部員の挙手による投票により部長となりました。
今でも謎です。
もしかしたら同じ楽器の先輩が部長で、いつもくっ付いていたのでそうなったのかもしれません。

3年生になる時に、顧問であった音楽の先生が転勤になりました。
そして新しい顧問の先生に代わりました。
どちらの先生も女性でしたが、30代初めの若い先生へ代わりました。
その先生は、市内のもう一つの強豪校であった中学から全国大会に行った経験のある方でした。

とかく何かが変わる時はいろいろ問題が起きる訳で、今までと違うやり方に部員から反発などがありました。
その度に部長は矢面に立たされました。
新しい先生としてはやはり全国大会レベルを目指している訳です。

指導者が変わるとどの世界でも変わるものですよね。
四国大会は夏休みにあるので4月からだと4か月しかないのですが、なんやかんやありながらも新しい先生の指導の元で頑張りました。
夏休みに入っても休みなく練習に合奏に明け暮れました。

県大会は当然のように金賞をとり、そして代表となり四国大会へ駒を進めました。
2年生の時は地元徳島での四国大会だったので、自分にとっては初の県外での大会にワクワクしました。
そして苦労の末に高知県で開催された四国大会で、初めて金賞を受賞することができました。

全国大会へは金賞の学校から代表が選ばれます。
残念ながら代表には選ばれませんでしたが、中学最後の年に金賞がもらえたことは本当に嬉しかったです。

私たちの学校は毎年秋に定期演奏会をしていました。
経験者ではないほとんどの1年生はその定期演奏会でステージデビューとなります。
もちろん1年生はまだあまり上達してないので第1部だけの出場となります。
私もそうでした。

小学生の時にステージデビューはしていても、フル構成の吹奏楽では初めてだったのですごく感動したのを今でも覚えています。
ステージでライトを浴びながら大勢の聴衆の前で何かを表現するというのは病み付きになりますね。
ステージ袖での雰囲気も格別です。

これは味わったことのある人にしか分からないかもしれませんね。
3年間で3回の定期演奏会のステージを満喫しました。
(高校1年の時にOBの部に出たので正確には4回となりますが)
そして吹奏楽に明け暮れた中学を卒業する訳です。

そして事件は起こります。

高校時代

当時の徳島市は、普通科の高校5校をまとめて総合選抜校(総選と呼ばれていた)としていました。
この5校に行きたい場合は、高校受験は総選として受験するのです。
そして合格発表の日までは、この5校うちどの高校へ行けるのか分かりません。
ですが、入学希望校を1位から5位までを記載することになっていたし、先輩たちはほぼ希望校に入学できていたので、自分も当然、希望校へ行けて吹奏楽が続けられるものだと考えていました。

しかし、合格発表の日にその希望は粉々に打ち砕かれました。
入学先として割り振られた高校は新設されて3年の高校で吹奏楽部はありませんでした。
当時はまだ徳島には市民吹奏楽団なんてなかった時代でしたので、こうして吹奏楽の道は醜い大人の事情で閉ざされたのです。

 あとから知った事情ですが、新設校は人気が無い。
さらに市内の普通科である進学校の学力水準を平均化するために設けられた制度でした。
本当にまじクソな制度です。
このような制度を考えた人間には〇意を覚えます。
高校で他に打ち込めるものもなく、高校時代はバイトに明け暮れることとなりました。

大学時代

当時はバイクブームで友達も結構な数の人がバイクに乗っていました。
写真は夏休みにバイクで実家の徳島に帰り、高校時代の友達と高知の室戸岬へツーリングへ行った時のものです。
当時乗っていたバイクは、YAMAHAのFZR400です。

 

現在

2015年6月から32年ぶりに楽器を始めました。
ユーフォニアムをまたやりたかったのですが、選んだ楽器はフルート。
なぜフルートを選んだのかというと、「軽い」ので持ち運びが楽、演奏人口が多いので「コミュニティ」を作りやすいとか。
音自体も好きでしたし。
さらにほとんどすべての指を使う楽器なので、脳の老化防止にも役立つんじゃないかなとも思って。(笑)

うちから数駅離れた教室に月2で通ってます。
引っ越してからは同じ最寄り駅になりました。(2019年現在)
半年に1回ほど、教室のおさらい会(発表会みたいなもの)があります。

おさらい会の終わりに合奏しているところ。

 

 

年を経るほどフルートが好きが大きくなってきています。
生涯の趣味にはとてもいいと感じてます。

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